2024.02.14

5年越しの父へのカミングアウト

父へのカミングアウトは、
母にカミングアウトしてからちょうど5年後だった。

なぜ、そのタイミングだったのか?
それは、体の治療をスタートすると決めたから。

両親からもらった健康な体が、
ホルモン治療によって、
どんどん変わっていく前に、

きちんと父に話をしてから、
治療をしたいと言う思いがあったからだ。

なんでカミングアウトしたのって、

よく聞かれるんだけど、
カミングアウトするタイミングが、
それぞれにあるんだと思う。

私の場合、
母へのカミングアウトは、
お付き合いする人ができたからだったし、

父へのカミングアウトは、
身体的な治療を始めるタイミングだった。

それは、二人っきりで話せる
タイミングかもしれないし、

ふと、今なら言えるかも!?って
思った瞬間かもしれない。
この人に、伝えたいって思ったからかもしれない。

もちろん、
カミングアウトは選択だから、
言っても言わないでもいい。

たまに、

「あなた、LGBT当事者なんじゃない?」って、

カミングアウトを強要する人もいるみたいだけど、
あれは、ほんまにやめて欲しい。
それは、誰のため?か一度考えてほしい。

相手のための質問じゃなくて、
それって、ただ自分の興味や、
欲求を満たすだけの質問じゃない?

どんな状況にあっても、
本人が何かを自分で選んで、
決める選択肢はあって欲しいと願う。

カミングアウトは、
本人が伝えたい人に、
伝えたいタイミングで伝える。

それがベスト。

それを見守る、
気持ちに寄り添ってくれる人が、増えたらいいな。

最初の数年間は、
カミングアウトする時、めちゃくちゃ緊張した。

1人に言えたからって、

他の人に、
どんどん言えるようになるわけじゃない。

1対1のカミングアウトが永遠に続く。

小学校で伝えることができて受け入れられても、
中学校、高校、大学、社会人、
転職、新たなコミュニティ。

環境が変わるごとに、

どうするのか?

現実を、突きつけられる。

この場は、安全なのか?
言ったときに、仲間はずれにされないか?
誰に話したらいいんだろう?
言わないほうがいいんじゃないか?

中学校で言えても、
高校では言えなくて、
我慢して、自分を出せないこともあるだろうし、

その逆もある。

どこかでしんどくなってしまって、
実際に命を絶ってしまった仲間もいた。

今でこそ、私は、呼吸するように、
カミングアウトできるようになったけど、

もし、今までに、

カミングアウトを、
受け止めてくれる人がまったくいなかったら、
本当に、これまで生きてたかどうかもわからない。


最初に受け止めてくれた人がいて、
あなたは、あなただよと、
言ってくれる人がいて本当に感謝しかない。

これを読んでいてくれる、

あなたにも、

「そうなんだ。」って、

誰かに寄り添う一人になってほしい。

父にやっとの思いで、
カミングアウトができたのは、

母に伝えた5年後だった。

なぜ、5年後だったのか?

はい、シンプルに父が怖かったから。

昭和19年生まれ。

今年、80歳。

THE昭和の父。

「大学に行かないやつは、人間ではない。」

っていう、父の名言(?)を、

中学高校の多感な時期に聞いて、

「はあ?そんなわけないやろ!?」って、

めちゃくちゃ反発してた。

#洗濯物は一緒に洗ってました

工業高校卒業後に、
1つの会社に定年まで立派に勤め上げた父。

無口で、頑固で、マイペースなB型。
努力家で、勉強家で、
週末もせっせと資格試験の勉強をしてた。

建設関係の仕事をしていて、
小さい時に持って帰ってきてくれる、
両手を広げたくらいの大きな図面に、
よくお絵かきをして遊んでいた。

それは、楽しい思い出として残ってる。

無口な父だったけど、
意外と子煩悩で、

小さい時には、海や山によく連れて行ってくれた。

ある時、父が大好きな阪神タイガースの試合に、

「お前ら、甲子園に連れて行ってやるぞ!」と、

張り切って、
小学校低学年だった、
私と兄を連れて行ってくれた。

天気のいい暑い日に、
並んでさあ入るぞって時に、

なぜか、会場に入ることができなくて😆
(持ってたチケットが違ったのか?売り切れだったのか?)

きょとんと、がっかりしている
子ども2人を見て、
かわいそうに思ったのか、

なぜか、あみとカゴを買って、
近くの川へ連れてってくれた。

小さな、小さな、
うなぎの赤ちゃんみたいな生き物が網にかかって、

自宅の金魚の水槽に入れたら、
すっかり馴染んで、

「ニョロちゃん」って名付けて、
誰よりも可愛がってた。

餌をあげる時に、
「ニョロは、どこや?」って、

ボソボソ言ってたのが、
子どもながらに、ツボだった。


とはいえ、
カミングアウト、どうしたものか。

白黒はっきりしている昭和親父に、
どう言ったら伝わるのか。

頭を悩ませて決めたことは、
手紙を書いて、父に読んでもらうこと。

その頃、私は、すでに実家を出て、
大阪市内に住んでいたので、
9枚の手紙を父に宛てて書いた。

内容は、ざっとこんな感じ。
・心と体が違うように感じていること
・小さい頃から、今までの辛かったこと、嫌だったこと
・これからは男性として生きていく覚悟を決めていること

そして、どうしても伝えたかったことは、

私がトランスジェンダー当事者であることは、
父のせいでも、母のせいでもなく、
育て方のせいでもなく、誰のせいでもなく、

どの地域にも、
どの時代にも、
データ上でも5%〜20%の割合で
当たり前に存在しているということ。

LGBTの知識、
これからどんなふうに男性になって、
社会で生きていくのか?
5年計画を具体的に書いた。

仕事の転職時期
性別適合手術に必要なお金の貯金計画
どのタイミングで性別移行して男性として働くのか
新しい仕事はどんな内容を考えているのか?
資格取得計画も書き添えた。

震える手で、ポストの投函。

1週間後、
父、母、兄が、大阪の自宅にやってきた。

母がお手製のお弁当を作って持参して、
馴染んだ味にホッとしながら、
美味しいねってみんなで食べた。

父は、
いつもと変わりなく欠かさず見ている、

「新婚さん、いらっしゃい」を見始めて、ニヤニヤしている。

わたしの心の声
(あれ?今日は、カミングアウトで家族会議では?)

ソワソワしながら、
父と母をチラチラ見るが、
二人とも本気で肩を震わせて爆笑している。

おい!笑

「ほな、帰ろうか〜。」

いやいや、
これからカミングアウト本番!

って、焦りながら、やっとこのこと、
「話があるねん。」って切り出した。

「手紙読んだ?」って聞いたら、
「ああ、読んだよ。ありがとうな。」と返事。

言いたいことは2つだけやと、
背広から藁半紙みたいなメモ紙を取り出した。

1つ目は、
身体を変えて社会で働くのは、
まだまだ差別や偏見が多くて大変かもしれない。

だけど、自分でそう決めたから、
応援してるから頑張れよ。

2つ目は、
順番通りに行くと、

父と母は、先に亡くなる。
そうすると、お前は一人になってしまう。

だから、お付き合いする人や、
仲間と助け合って生きていってほしい。

そう、読み上げてくれた。

その瞬間に、一気に力が抜けた。

ああ、そっか。

父から、
LGBTとかトランスジェンダーとかのことで、

もっと、存在を否定されたり、
お前なんか家族じゃないって、
言われたらどうしようか?って、

恐れていたけど、
結局、父が伝えてくれた2つの想いは、

ただただ、
親が我が子に、
幸せに生きてほしいっていう、
思いだけだったんだなって。

当たり前のことを、
言わせるなっていう態度で、

「なんか、あったらまた言えよ。」って、

帰っていった。

受け取った、

ヨレヨレの藁半紙のメモには、
鉛筆で何度も消しては書いての跡が見えた。

父もいろいろ悩んで、
考えて、
それでも向き合おうと思って、

今日、来てくれたのかもしれない。
複雑な思いがある中でも、
応援したいって気持ちで、

そう伝えてくれたのかもしれない。
本当に大切なものは、
目に見えない。

全く受け取ってなかった。

頑固で無口で、
マイペースな父の、
思いがけない愛情に触れて、

ホッとして、嬉しくて、
奈良に向けて走り去っていく、

車を見送りながら、また、泣けた。

お父さん、本当にありがとう。

あれから、実家に帰ると未だに、

「おい、直美!元気そうやな。」

と嬉しそうに呼びかけ😂

「いい歳のオバはんになったな!」と笑う父。

ちなみに、父と母と妹夫婦と、
私で旅先の旅館に泊まった時は、

「おい、直美!風呂にい行くぞ!」と一緒に男風呂へ。

本気で、
どこまでわかってるのだろうか?

と思う時もある。
でも、それが父だから、まあいいか。

2024年、
今年で80歳になるね。
7月に一緒にお祝いをして、
あの時の気持ちを聞いてみようかな。

書きながら懐かしい、
温かい気持ちになりました。

今日も長文読んでくださって
ありがとうございました。